推し事のまにまに

推したい時に推したいだけ推す。オタクの亡霊の舞台沼ライフ。

オタクにはオタクとしての寿命がある

私は現場で金を落すオタクである。今は流行りの舞台俳優のオタクというやつをやっている。

 

どのジャンルにいたとしても、現場で金を落さない限りその対象は飯を食えない。どんなに気持ちで応援していても現場で金を落さなければ推しはいつか消えてしまうかもしれない。だから現場で金を落さない応援など本質的には意味はない。茶の間はいずれ現場に来るかもしれない可能性の塊ではあるが、推しに対して「今回は行けませんが」などという残酷な発言はしないでくれ。そう思うタイプのオタクだ。

 

そう思うタイプのオタク、だった。

 

突然だが、オタクにはオタクとしての寿命がある。その寿命がいつ尽きるのか、様々な要因で寿命はやってくる。本当に自分の心臓が止まり突然終わることだってあるかもしれない。推しを応援できる期間(もちろん行動と金の伴う応援である)は、有限なのだ。

 

舞台俳優、特に2.5次元若手俳優のオタクは女性が多い。女性にとってこの寿命問題というのは、案外早くやってくる。それは30を過ぎる頃突きつけられる、いわゆる、出産適齢期の期限、というやつである。

 

現場主義の女オタクは誰しも選択を迫られることだろう。結婚・出産というライフイベントを捨ててこのまま現場に通い続けるか、現場を減らしてライフイベントに挑むか。どちらを選ぶかは自由だと思っている。その人が胸を張って自分の人生が幸せであったと、生命活動を終える瞬間に振り返っても後悔を抱かない選択をすることが大切だと思っている。

 

私は子供のころから漠然と、将来は結婚して子供を産んで家族を持つと思っていた。30歳で結婚して、40歳までには子供が2人。明確なビジョンだった。

 

私はこの夢を、諦めることができなかった。推しの現場に通って金を落さないファンなんてファンじゃない。全力で推しを推せない人生なんて生きている価値はない。そう思っているオタクなのに、いざ寿命選択の場に立った時、私はライフイベントを捨てることができなかったのだ。

 

理屈ではなかった。本能が拒むのか、推し活が心から楽しめない自分に気付き始めた。最終的な決め手は、「子供を持てなかった事に対して、推しを言い訳にしたくない」だった。推しのことが大好きだからこそ、推しを理由にしたくなかった。誠実でありたかった。真っ直ぐに愛していたかった。

 

そうして私は、オタクライフの延命を、捨てた。婚活をして、結婚をした。

 

それでも少しでも推しを推せる環境を残そうと可能な限りの努力はした。オタク婚活をして、現場に行くことを許してくれる神のような旦那を手に入れた。最低でも月に3回は現場に行ける。円盤も全て買える。ブロマイドも、グッズもだ。声を高らかに宣言できるくらいの大勝利だ。子供を預けて芝居を観に行ける。オタク寿命は尽きなかった。どこからどう見ても大勝利だ。結婚を機にオタクをやめる子だってたくさん見てきた。明らかに私は恵まれている。

 

でも、私は、それをそうと感じる事ができなかった。
私は、犠牲にできるものは全て犠牲にしてでも現場に行きたいタイプのオタクだったからだ。

 

何かを理由に現地を諦めるなんてのは、天災と病以外にはありえなかった。金も、時間も、仕事もどうにかしろ。できないのは甘えだ。他人に強要はしないけどそれこそが真のファンの在り方だと考えている。考えていた。そういう強いタイプのオタクだったのだ。


結婚をすると何が起こるか。
金が自由にならない。時間も、人として終わっているレベルの無茶はもうできない。常識の範囲でおさめないといけない。
まず真っ先に消えるのが地方遠征だ。どんなに行きたい舞台でも二度と全通はできなくなる。
お金だって。給料以上をつぎ込みクレカ引落が××万!なんて月もあるような無茶な使い方は当然もうできない。粛々と決められた数万円の中でやりくりをすることを求められる。

今後のライフイベントへの貯金だってしたい。
この私が貯金!笑ってしまう。そんなものなくたって生きていける、今が大事だ、推せる時に推すんだ!そんな自分はもうどこにも存在できなかった。

 

でも、私はこの呪縛を切り捨てて飛び出すことができなかった。これらの枷なんて考えひとつで外すことができる。捨てればいいのだ。でも、捨てられない。捨てたら絶対に後悔してしまう。

 

その後悔をやはり推しのせいにしたくなかった。

 

つまり私のオタク寿命は、尽きた。私は明確に自死を選んだのだ。以前の私に言わせると、私は推しのファンを名乗る資格を失った。

私はもう二度と、推しのファンだと胸を張って言えない。それは泣き叫んで暴れたくなるような、吐くほどしんどい、私にとっての命の終焉だった。

 


だか、今は、推しに対してファンであり、心より応援している、と穏やかな気持ちで言うことができている。
正直とても驚いているか、確かに私は以前のように、否、もしかしたら以前よりも推しを推せていると穏やかに感じている。


そんなオタクとしての寿命を迎えたオタクの生き方を、以前の私に知って欲しいと思ってこうして記事にまとめている。ふとした瞬間、亡霊のように現れては私を苦しめる、過去の私に知って欲しい。


全ての人が現場に通い、金を払えるわけではない。それでもそれは、その人の全力かもしれない。自分から見てあまりにヌルくても、それがその人にとっての1000%の努力の結果なのかもしれない。

だから全てのガッツじゃないファンを見下すことをやめて欲しい。受け入れて欲しい。本当に心の底から推しを応援している人はたくさんいるのだから。

現場を選んで通うのだって。買うものを厳選するのだって。その人にとって犠牲にできる全てを犠牲にした限界がそこなのかもしれない。
金が出せない、現場に通えない、は、罪ではない。推しを推せていないだなんて思って、苦しまなきゃいけないようなものではない。

 

何かを犠牲にしてする推し活は、何かが狂っているだけで、間違っていないけど正しくもきっと、なかった。

 

そんな事当たり前じゃんと思うかもしれない。だが頭で分かっていてもそのことを私はずっとどこか他人事のように思っていたのかもしれない。
もしも過去の私のように思っている人がいるならばどうか知って欲しい。いずれどんな形にせよ、誰しもが必ずそのオタク活動の寿命を迎える瞬間がくるということを。

 

命を削って、人生を捨てて、全てを推しに捧げる。それはとても満ち足りていて、生きていると感じられて、楽しい夢のような日々だった。だがそのオタク寿命は有限だ。いつか必ず尽きる日が来る。

 

尽きた後をどう生きるか、その事の方がはるかに大事だったのだと今ならば分かる。

 

現場と茶の間を明確に区別し、あまつさえ見下すような考えは、いつか必ず自分を苦しめる。金払いの悪いファンも、腰の重いファンも、それが当人の全力ならば真実のファンだ。どうかそのことを忘れないでほしい。

 

寿命尽きた後も推しを推していくために。罪悪感で潰されてしまう、その前に。

 


これらのことに気付き受け入れられた直後、病が見つかった。もう少し発見が遅かったら即手術が必要だった、完治のない病だ。
尽きたはずの寿命の先で、私の寿命は更に細く削られている。
この先更に現場にいけなくなるかもしれない。けれども私はそのことを、今はもう穏やかに受け入れられている。それはなんと幸福な事なのだろう。


もちろんこれからも私は10000%の努力をして現場に行って推しに会い、推しに金を払う、そういうファンだ。たとえそれが、たったの1公演だけだったとしても。

 

推しがこの先も長く活動していくために、一人でも多くこうしてしがみつくオタクが残ることが大事だとも感じている。死してもなお、推し続ける。推しにはそんなオタクがこれからもたくさんついてほしい。

 

強いオタクとして死んだ私は、それでもまだ推しのファンでいる。
誰にも否定なんてされたくない。されなくていい。

 

私は今、本当の意味で強いオタクになれたと感じている。


どうか全てのガッツなオタクたちが、後悔のない最期を迎えられるよう願っている。